年も改まり、早いもので令和5年を迎えることになりました。
私たち日本人は、現在、元号と西暦を使っていますが、元号っていつから使われているのでしょうか?
さてここで問題です。日本最古の元号は何でしょうか?答えは「大化」
あれ「大化」ってどこかで聞いたことがあるような気がすると思った人は鋭い、実は歴史の授業で習った、大化の改新の時に制定されたと考えられているものなのです。
では「大化の改新」は何故起きたのでしょうか?様々な要因がありますが恐らく一番の理由は、隣の大陸に巨大な統一王朝、「隋」が誕生したことではないでしょうか。「隋」はわずかな期間で滅びてしまいますが、その偉業は「唐」に引き継がれ、近隣の国々を征服する巨大国家になっていきます。
これに危機感を持ったのが当時の人々です。「唐」という巨大国家に対抗するためには、今までのような仕組みでは歯が立たない、改革を実施し国のあり方を改めねばと考え、その為に「唐」に学び、良いものは良いものとして受け入れ「唐」や周辺国に対抗できる、強い力を持った国を作ろうと考え実施したのが「大化の改新」だったのです。
では、「大化の改新」前後で何が変わったのでしょうか?日本の古代史については残された文献も限られているので、推測の域を出ないところもありますが、「大化の改新」以前は、各地の豪族がそれぞれに固有の軍事力を持ち、その地域を支配していた、よく知られているのは「蘇我氏」や「物部氏」といった氏族です。
大和の国を中心に日本を納めていた「天皇家」も当時はまだ「天皇」という名前でも呼ばれておらず、「大王」と呼ばれており、現代人がイメージするような絶対的な力は持っていなかったと考えられます。
当時の日本の領域も、今でいう西日本が領域の中心地で、不破の関から東側は、辺境の地という状況でした。
一言でいうと、国が結構バラバラの状態で、各地の豪族がそれぞれやりたいようにやっており、それを取り締まることが出来ない状態といったところでしょうか、当然そんなバラバラな状態であれば隣の大国が攻めてきた時に対抗することは出来ません。
それゆえに天皇を中心とした、統一した国家を樹立し、隣の大国とも互角に渡り合う事の出来る国家を作ろうと行った改革が「大化の改新」だったのです。
日本が、色々な改革を行おうと動いているさなかにも、国際情勢はそんな事はお構いもなしに動いていきます。隣国の朝鮮、それも日本とは仲の良かった「百済」に「唐」「新羅」の連合軍が攻め込んでくるといった大事件が勃発したのです。古代史においての朝鮮半島は、日本にとってはかなり重要な問題だった様で、この戦争に日本も「百済」側として参戦をします。そして起こったのが、「白村江の戦い」です。この戦いで日本は大敗を喫してしまいます。
ここからは、私の推測ですが、この戦いには恐らく西日本の豪族が大きくかかわっていたのではないかと思います。当時は「百済」を経由して大陸の物資が日本に入ってきていたとしたら、その連絡路を絶たれることは、そこに利権を持っている人たちにとっては他人ごとではありません。多くの豪族が我先にと、朝鮮半島に出兵したとしても不思議ではないですね。
しかし「唐」「新羅」の連合軍は非常に強く、大敗をしてしまう、つまり西日本の豪族の軍事力が、灰燼に帰してしまう。この事は、天皇家にとって一大事でもあり、幸運なことではなかったのではないでしょうか、一大事とは、防衛の最前線である西日本の軍事力が灰燼に帰しているので、これを再構築しないと日本が占領されてしまうという事です。それに対抗するために、当時、天智天皇をはじめとする人々は、防人を九州に派遣しました。その主な担い手は、東日本の人たちだと言われています。
幸運な事とは、西日本の豪族の力がダウンしたので、言う事を聞かせやすくなる、天皇家を中心に軍事力を構築する事が出来るという事です。
こうして巨大国家「隋」「唐」に対抗するために行った、諸改革が進んでいく事になるのです。ただ「大化の改新」に関しては、不明な点が多く、今後の研究の進展次第では、教科書を変えるような発見がなされるかもしれません。
今回は主に「軍事的視点」で大化の改新についてお話をさせて頂きました。次回は、世界史の分野で見ても重要な「徴兵制」と「傭兵制」の視点で見た、大化の改新以後の日本の軍事についてお話が出来ればと思います。